アメリカ人の修羅場のおさめ方に感動 ~ただのNetflixとかの鑑賞の感想~
10日ぶりのニュースレターです。みなさまどうお過ごしですか?
私はアメリカのドキュメンタリーにハマり、アメリカのドキュメンタリー三昧の日々です。
「行動」と「人格」を分けるアメリカ
アメリカに暮らす人たちの、問題が起きた時の対応の仕方がすごいなーって思ってそれにハマりました。
(※ここで使う「アメリカ」はすごく大雑把に捉えた「アメリカ」です。Netflixとかの「この作品の原産国」の欄に書いてある「アメリカ」くらいザックリとした「アメリカ」を指します)
アメリカのドキュメンタリー(テレビ番組として放映されている作品)はすぐ修羅場が起きる。喧嘩とか罵り合いとか。あと被害者と加害者として揉めた人が、第3者を挟んで公開の話し合いもよくある。 エンタメとして出演者が理解していてわざと修羅場起こしている場合もあると思うが、ナチュラルに起きているのもあると思う。カメラが回っているからか、周りの人も立ち回って、うまくおさまります。編集によってすんなりおさまっているように見えるというのもあると思うが、修羅場そのものも面白いけど、それをそこにいる全員が同じくらいの量の発言をしながら事態をおさめていくっていう工程が、すごいな~って思う。
「他人に対しても自分に対しても『行動・状況』と『人格』を分けて捉える」っていうのをみんなが共有していて、それを軸にして人々が事態をおさめていく。
例えばその人間関係の中で裏切ったとかだましたとか不倫したとかレベルの悪いことをした人(加害者)が「あなたは自分のしたことをどう思っているか?」という質問に公の場で答える時。加害者は「私はあの時バカなことをした。すごく後悔している(行動)。だけどあの時はひどい状況にいたから仕方なかった(状況)。私が素晴らしい人間なことには間違いがない(人格)」と言う。 「行動・状況」と「人格」が分かれていて、でもそれらが一線上に並んで両立している感じ。
そして聞き手は、加害者の「正直に話す」という部分を評価するんです。「真実を話してくれてありがとう」みたいな。
さらにオーディエンスとして聞いていた人は「あなたがやったこと(行動)は許されないことだと私は思う。だけどあなたの環境は悲惨だった(状況)ことは理解できるし同情する。そこであなたはあなたらしくいた(人格)のね」とか発言する。セラピストとかじゃない人たちがそういう話し方を普通にしているのがスゲエエ~~~~~!!!
もちろんその時、被害者の気持ちに寄り添いながらそれらを言う。 そして、加害者のその発言を被害者が許すかどうか、はまた別の線の上にあるものとして見守る。
加害者が事情を聞かれた時に「正直に話す」かどうかが重要なポイントで、嘘をついたり話さずに行方をくらましたりすると、そこでやっと「悪人」の扱いをされるっていう感じ。
日本の「人格」の部分
私はアメリカが優れているとか、日本のほうがすごいとか、そういうことを言いたいわけじゃない。
ただ、そういうアメリカのドキュメンタリーの中でのアメリカで暮らしている人たちの『「行動」と「人格」を分ける』という感覚をみんなで共有している光景を見て思ったのは、日本は「行動」が「人格」と直結しているということだった。 日本のテレビ番組では、悪い行動をした人が登場すると、もうその人自体がおかしいみたいな感じで捉えられてそこで終わる事が多い。そこで終わるのが当たり前って感じ。だからその悪い行動をした人のフォローをするために、別の人がその人に毒舌を吐くことでもっと悪くなって笑いもとる、という形でその人の悪い行動をうやむやにする事によってその人のフォローをするっていうのはあると思う。(例「テラスハウス」での山ちゃん、不倫した芸能人が復帰するのがお笑い番組等)
アメリカの番組では、悪いことをした人に「あなたのやったことでこの人はすごく傷ついた」ということをある程度言ったあとに、「弁解のチャンスを持ってもらおう」とか言う。そうやってちゃんと加害者の事情(真実)を聞く場をわざわざ設ける。 私はこの、加害者側の「行動」をしっかり非難したあとにその人の「人格」へのフォローがハッキリ存在している点にすごく驚く。
他人をフォローする時の形式が、日本は「雰囲気、空気、笑い」だとしたらアメリカは「言語化、意識化、明確化」なんだなーっていう感じ。 しつこいけどどっちがいいとかではなく、アメリカのそういう人々の光景を見て、日本の特徴が見えるのがすごく面白い。
そんな感じで日本は、何か悪いことをした人にその事情をテレビとかの公で聞く場合、「自分のしたことをあなたはどう思っているか?」って聞いたとしても加害者側は「私はあの時はバカなことをした。すごく後悔している(行動)」で止めないといけない、っていう作法があると思います。
「だけどあの時はひどい状況にいたから仕方なかった(状況)。私が素晴らしい人間なことには間違いがない(人格)」なんて言ったら余計に叩かれる感じ。
それに日本は、(人格)の部分に「私が素晴らしい人間なことには間違いがない」という要素はほとんど入ってない気がする。日本で(人格)を指すものは「その人自身の性質、生まれや育ち」という認識が強いと思う。
アメリカがこうだとしたら
(行動)-(状況)-(人格)
日本は
(行動=人格=育ちに由来)
こういう感じ。
状況を聞いてもらう機会のない良太郎
悪い(行動)をしたら「悪人」という地点にいったん立った状態で相手が求める形の説明や謝罪を決め込まないと(人格)も悪いとされてしまう、それが日本の特徴である。という説でいま書いてきましたが、それで思い出されるのは、清水アキラの三男でお笑いタレントだった清水良太郎が2017年に賭博疑惑騒ぎがあった時、美川憲一からこてんぱんに説教された「今夜解禁!ザ・因縁」という番組。
ここにちょっと会話が載っていて→清水良太郎容疑者 美川憲一が大説教、この会話をもとに書いてみます。
良太郎はここで「疑われる場には行ったが、そういう場だと自分は知らなかった。逮捕はされていないから実際そんなに悪い事はしていない」と(状況)を説明する。やったこと(行動)自体は実際、真っ黒ではなくグレーな感じ。
でも美川憲一(日本の世間の意識の集合体)はその良太郎の振るまいを「自分が悪いと認めていない(悪人の地点にいったん立つものなのに立ってない)」と捉える。状況の話も「言い訳」として「悪人」のほうにカウントを入れていく。そのカウントは燃料となって、「お前が悪いとまず認めて謝罪するところから始めろ」という頭ごなし説教モードがヒートアップする。
良太郎は、2世という育ち(日本でいうところの人格)と今回の行動は分けて捉えて欲しい、という超アメリカンな要求を美川憲一様(日本のお茶の間意識を元気玉みたいに集めることができる悟空)に面と向かって言っている。
美川憲一世間代表御大にそんなもんが通用するわけがなく、「2世という生まれ(人格)を受け入れてそれにそぐう(行動)をし、(行動=人格)な世間及び身近な人たちに対し、迷惑をかけたことをお詫びせよ」と、日本社会では至極真っ当なことを良太郎に教える。
良太郎は納得いかない感じで終了していた記憶がある。話をちゃんと聞いてもらってないからだと思う。
やっぱ日本の公の場だと「私はこの時はバカな行動をした。すごく後悔している(行動)」で止めないといけない。「私はこの時はバカな行動をした。すごく後悔している(行動)」で止める姿を見せる、というのが「賢い」ことだと思う。両手を挙げて巨大な日本正義玉を持っている美川憲一がテレビの前で「そうなんだ、何があったワケ、話してみなさいよアンタ」とか尋ねてくれるわけがない。
美川憲一も自身の悪の経歴を引き合いに語るけど、それも「私はこの時はバカな行動をした。すごく後悔している(行動)」で止める話し方だった。そこに続く「だけどあの時はひどい状況にいたから仕方なかった(状況)」は言葉では語られない。聞いている人があくまでニュアンスで察する・臆するという形でそれぞれ処理する。意識化もされなかったりする。それが日本。奥ゆかしい。
そういえばちょっと前はこういうお説教番組がすごく多かったけど、最近はほとんど絶滅したレベルで見ない気がします。やってる?
悪い事するやつは問答無用で悪い奴
日本では、芸能人が不倫したら世間がまず早急に謝罪会見を見たがるのは「私はあの時はバカなことをした。すごく後悔している(行動)」という考えを示す行為が「私は私なりにがんばって生きている善良なところもある人間です(人格)」に直結しているからで、謝罪会見の時期が遅くなる、というのはアメリカでいう「状況説明の場を設けたのに嘘をついたり来なかったする」というのと同等の意味を持っている。
まとめるとこんな感じ。
*アメリカ
(行動)-(状況)-(人格)が分かれた状態で一線上にある。
「正直・真実」が高ポイント。
(状況)を話す勇気が評価される。
なので、加害者が(状況)を話せる場を設けたり尋ねたり、答えられるまで待ったりする。
ここで嘘をついたり逃げたりすると印象ガタ落ち。
「どんなに悪いことをしたとしても、悪い状況になったとしても、私が素晴らしい人間なことには間違いがない(人格)」という概念をみんなで共有していてそれを軸に話をする。
というのが世間の建前になっている(この様子がテレビでお茶の間に流れている)。
*日本
(行動=人格=育ちに由来)直結して一つにまとまっている。
「行動を悔いている、悪い事をしたと認めている姿」を素早く見せることが高ポイント。
何が起きてるんだ? と他人をザワザワ・モヤモヤさせるということが実際その人がした悪い行動以上の罪なので、モヤモヤ時間を長引かせないことが重要。
ニュースを読んだだけとかのぜんぜん関係ない見知らぬ人へ謝罪の姿勢を素早く見せることで(人格)への評価がさらに著しく下がることが防げる。(ということになっている)
その際、(状況)は公で口にすると印象が悪くなるので絶対に言わない。
神妙な表情や腰を折り曲げて頭頂部を見せる時間の長さのほうが高ポイント。
というのが世間の建前になっている(この様子がテレビでお茶の間に流れている)。
「どんなに悪いことをしたとしても、悪い状況になったとしても、私が素晴らしい人間なことには間違いがない(人格)」という捉え方は意識化・言語化されることはあまりなく、霧くらいの感じであったりなかったり、漂っている。
そりゃそうだったんだなあ
あとアメリカみたいにカウンセリングやセラピーというものが日本ではいまいち普及・浸透しないのもすごくよく分かった。もともとアメリカは「行動」と「人格」が分かれてる認識だから、行動に問題があったらその問題に取り組める人が多いんだと思う。 カウンセリングとかセラピー自体がアメリカ産のものが多いし、あと銃社会とか、日本とはそういう背景がぜんぜん違うから、「笑いでフォロー」とかしてたらマジでブッ放されたり、たくさんの人種や宗教の人たちが暮らす巨大な国だから、明確化しないと危険っていうのもあるんだろうな、と本当にぜんぜん知識ないんだけど思いました。セラピーやカウンセリングも、必然的に発展せざるを得ないものなのだろう。あとアメリカのドキュメンタリーやドラマで、劇的にヤバい状態になってて大暴れする人が出てくると「彼(彼女)に必要なのは非難じゃない、救助よ」とか「いまあの人には神の助けがいる」とか言うところが好きです。
日本は「行動=人格」って一緒くたになっているので、カウンセリングとかになると私自身を丸ごと変えるってことなのか、っていう感じがしてそんなことできるわけない、みたいに思う人が多いんじゃないだろうか。
日本ではカウンセラーやセラピストがまず「どんなに悪いことをしたとしても、悪い状況になったとしても、あなたが素晴らしい人間なことには間違いがないんですよ」って、行動と人格を離して考えることを教える、っていうところから始まるし。日本ではセラピストがその役目を担っている。
悪そのものに突撃するイマイ
アメリカのドキュメンタリーで「
(行動)-(状況)-(人格)が分かれた状態で一線上にある」っていうのをすごく分かりやすく観られるのが「Catfish 日本語題:キャットフィッシュ ~リアルレポート ネット恋愛の落とし穴」です。U-NEXTとかで観られます。ネットでチャットやメールで恋愛関係になってるけどまだ会ったことがない相手に会いに行くのをニーヴとマックスという2人の男性が手伝うという番組。

左がマックスで右がニーヴだ!
この番組に出てくる一般人は、ネット上で何年も愛の言葉を交換している相手と会ったことがない、という人たち。会ってもらえないのには理由があって、相手は別人の写真を使っていたり嘘の経歴を言っていたりするわけです。会いに行くと、ちゃんと本人に会えたりもするんだけど、見た目も性別も年齢も違う人が登場したりもする。登場するんです。すごい。顔出しで登場するのがすごい。
さらにすごいのは、ニーヴがその、嘘をついていた加害者に気持ちや事情などの話を聞くとこ。さらにすごいのは加害者がちゃんと事情を話すところ。さらにすごいのは話しながら「私は悪いことをしたと思う。だけど私は悪人じゃない」とか加害者本人が言うところ。さらにすごいのはそれをニーヴが「そう思っているんだね」って受け入れるところ。さらにすごいのはそれを聞いた被害者が「一応謝罪は受け入れる」とか言ったり「許せないけど事情を理解はした」とか言うところ。
アメリカだからって、この番組が突撃してきて誰でも顔出しで出るわけじゃないと思う。これに出る人はアメリカ人の中でも、すごく変わっているとか、人一倍勇気があるとか、下心があるとか、出るべき事情があったりするんだろうと想像する。
だけど日本でまったく同じ番組を撮ろうとしても絶対に成立しないと思う。
日本だと、日テレの「振り込め詐欺に突撃するイマイシリーズ」とかになる。おとり捜査の形で突撃し、「悪」の行動を働いている真っ最中の加害者に対して真っ向からツッコむという形。まさにイマイシリーズは「行動=人格」という前提を軸にしている。振り込め詐欺をなぜしてしまうのか、という状況を探ったり、加害者個人がどういう人間なのかという視点は持たず、ただ行動の悪徳ぶりを暴く、その矛盾を突きまくる、加害者がボロを出す様子の滑稽さを笑うエンタメ。イマイも加害者も顔を視聴者には晒さない。無機質な男性イマイが悪を成敗する、という心地よさを味わう。
セラピー番組が普通に流れてる
「Catfish」は加害者の事情を聞き、被害者の気持ちを尊重し、別に無理に仲直りさせることもなく、ただその事実を流す。衝撃。セラピー番組やん。それがシーズン6までびっちり何組ものネット恋愛ペアが登場する。
マイナーな番組なのかなって思ってたら、放送開始の2012年アメリカでは社会現象になるくらい大人気だったらしい。お笑い番組で「Catfish」のパロディをやってたらしい。とんねるずが「北の国から」のパロディするみたいな感じだよね。すごい。
こんなセラピー番組が、セラピー番組としてではなくお茶の間に流れている、っていうのが超すごい。
私がいろいろ、親の問題で苦しいときにお世話になった考え方とかデータとか、信田さよ子さんとかの心理の専門家の本に出てくる分析とか、友達から教わったスピリチュアルっぽい心理学とか、やってみてすごく気が楽になったセラピーとか心理療法とか、それらをもとに自分が本に書いてることとかって、だいたいアメリカ由来のものなんですね。
私が自著で繰り返し描いているのは、まさにこの「Catfish」の世界です。 ずっと対峙できないまま、その関係のぬるま湯に浸かり、真実を見ないようにしてつまり責任を回避して、そんな風に繋がった2人、というのはネット恋愛だけじゃなく、親子や夫婦や様々な対人関係で起きがちです。そのぬるま湯から出て、現実で改めて出会い、対話する。被害者と加害者の関係になる。被害者は自分の傷つきを感じショックをしっかり受け止め、加害者は自分のやった事の重さを認識し、自分にも事情があったということを自分で理解することで罪の行為を断つことができる。その結果、お互いに離れたりさらに絆を深めたりすることもある。そういう対人関係の変化によって、ツルッと一皮向けて新しくなるような、そういう瞬間がすごく好きなので、それをいつも書き起こしています。
でも日本ではどうしてもかなりハードルが高くて伝わる機会が少なくて苦戦しているので、「アメリカではこんなのがマジで流れてるんだ!テレビで!こんなモロ出しそのまんまなものが!しかも大人気で社会現象に!本場!!」っていう衝撃があったわけなんです。
例えて言えば州に一つしかない空手道場に通い、周りの人からは「カラテってなんの役に立つの?」と言われる土地に住んでいる少年が、日本の「空手道場がいたるところに無数にあって胴着着てる子どもが道歩いてたりする光景」を見て「スゲエエエエエエ!!!!!」って感動するみたいな感じと同じだと思います。 あとは相撲好きな海外の人が、日本では子どもの頃から「ちびっこ相撲」があるという事実を知って「やっべえ日本ドゥオオオオオオオオオオ!!!!!」って叫んじゃう感じ。スキーが大好きな九州在住の人が「北海道の人は学校の授業でスキーをする」って知って「ほーっかーいドゥー------ーッ!!!ウエッウエッウエ~~ッ!!(志村けん)」ってなっちゃう感じです。たぶん。
とにかく感動したし、面白いし、アメリカのドキュメンタリー最高~~! 飽きるまで見まくります~というお話でした!
次回もお楽しみに~!
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